こんにちはサヤカです
今回は私が物事を判断する時、特に人が関わること、その時の価値判断に大切にしていることをシェアします。
好き嫌いで決断しない
感情というのは一時的。天気のように日々変わる、その日に空に浮かぶ雲のようなもの。
たまたま浮かんできた雲をみて「嫌だ!やめよう!」となってしまっては、何も積み重なっていきません。
物事の価値判断に好き嫌いをモノサシにすると、判断を誤る可能性があると感じています。
どんな決断も最終的にはよかった、という考えがベースにありますが、「嫌い」で決めてしまうことほど、積み上げてきたものが無となる悪い印象で終わってしまいます。
感情的になればなるほど、事も人も続かない
なんだか寂しい。物事が積み重なっていかないのは、ひょっとすると日々の何気ない選択から大きな決断まで、好き嫌いで決めてしまっているからかもしれません。
急によそよそしくなる
人というのは合理性さえ、話に辻褄があっていれば納得する生き物だと私は思っています。
しかしそこに誰かの影響力や感情に左右されたであろう言動に対しては、胡散臭さを感じた経験、それぞれないでしょうか?
急に雰囲気が変わる、よそよそしくなる。
それぞれ経験ありますよね。
これは絶対にわかってしまう、関係者を含む全てにその印象は影響していきます。そしてどこが発端かもすぐわかります。
なんで悪口や不平不満をいう人とは関わらない方がいいのか?それは無意識にでも影響を受けるのが人間だからです。
「あの人そういう人だったんだ…」
昨日まではそう感じていなくても、話を聞いちゃったら急に見方が変わってなんてことがあるのが人間です。
それがプラスの方向ならいいですが、マイナスのイメージ変わってしまったのならとても残念なことでしょうね。自分はそう感じていなかったのに、急に悪く思うようになっちゃうなんて。
誰かの負を連鎖に巻き込まれてしまった状態としか言えませんが、影響される方も影響される方でしょう。
悪い印象をもたせる発言は誰得?
いじめってそういうことです。
誰かが言い出しっぺで、本当に悪いのは1人。
でも一緒になって影響されてしまうこと人も、借金を背負うことに変わりはないしょう。いじめっ子ならわかりやすいですが被害者かわいそうになる人も同じことが言えます。
「そんなこと言われちゃったんだ…」
誰かにマイナスの印象をもたせてしまうような言葉を語る人は、誰かをいじめているわけじゃないけど、やっていることは同じ。
悪気はなくても、結果として悪い印象をもたせてしまったなら、その発言は誰得になるのか?
我慢している、かわいそうな私。対比的存在が必要です。やられている立場なら発言が擁護されやすいので、そこに心が味をしめているのが「かまってちゃん」「メンヘラ」と呼ばれる人格です。
無意識的にそうした発言が癖となり、人となる。つまり被害者でいることがキャラクター化していきます。
客観的にみて、それは幸せか?人によってはそれをイメージしてもらえればいいと思います。
挑発にのらない強さ
さてさて、私もいじめられたことはありますので本当に悪い人を擁護するつもりはないですが、いつまでもやられている被害者になってはダメ!
自分の人生に加害者と思うような人・事が負の記憶としても居続ける限り、今日の生活も明日の人生も重たくなってしまうから。
でも誰でも「可哀想な私」そうなる可能性はあります。誰でもなる、人間は弱い。
だから鍛錬、日々鍛錬して自分を律していきましょうと。そのための食習慣、そのためのトレーニングであれ。
私も最初は「痩せるかも?」どこにでもある単純な理由でトレーニングをはじめましたが、その先にこういう世界観がある、それが伝わればうれしく思います。
起こってしまったことはしょうがないの。そして以前コラムに書かせていただきましたが「善意の奥にある悪意」これは正直厄介、私も怒りを覚えますが怒りは三毒、自らを苦しめる毒。
挑発にのらない強さを身につけていくこと
「強くあれ」私もそうあり続けたい。
そのためには肉体的鍛錬は必要不可欠だと感じていますが、個人の感覚的感想というより、ヨガの体系的知識の中に「肉体の鍛錬の必要性」は示されています。
これからどう生きていくか!これからの生き方がすべて。体も心もそれ次第、過去の印象というのは今からどう生きていくかで変えられるんだから。
可哀想な私に成り下がるな
「可哀想な私になる人」を私は関わる10人に入れません。それはいつの間にか、自分が加害者になってしまう可能性があるからです。
「デストロイヤー最も関わってはいけないタイプ」
せっかく築き上げたものを無効化・砂漠化する可能性があるから。「悪気がなければ許される…?そんなわけねぇだろ!」と私はまだまだ思ってしまうのが正直なところです。
「悪意がなければよし」とするならば、その負担を背負えるほどの人間に私はなれていないので関わらないようにしています。
好きか嫌いというより物事や人との関係を積み重ねていくことに喜びを感じている私にとって、最も恐れていることは…
築き上げてきたものが無になる、無効化、砂漠化することなのでしょう。
心が絶望の淵に堕ちる時、どこからともなく魔の手がやってくる感覚を私は知ってる。
つまり明日は我が身、自分自身が「可哀想な私」デストロイヤー化してしまう可能性もあるということ。
負の感情・感覚で侵されていくのは、大変という言葉では語れないくらいの「重さ」です。一度そこへいったらなかなか戻ってこれない、まさに囚われの身。
だから人生でいかなる時も引っ張られてはダメ。なにが何が起ころうと、また1ならぬ0からやり直せばいいだけです⭐︎
大切なことは
どんな時も希望を失わないこと
どなたかの参考になれば幸いです。ご一読いただきありがとうございます。
今日も応援しています♪
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